ここでの平等とは、『自分が行なわれて嫌となる行為を、他人に対して行なってはいけない』ということを根底に持ち、自分が他人に対して行なった行為を逆に他人から受けた場合に、それを理解して受け止めなければならないことを指す。
これは、暗黙に自分に対する態度と相手に対する態度を平等に保つという、真の平等を行なわなければならないことを要求する。
行動者自身としては、第三者視点から自分と相手のやりとりを行なう状況を、自分の心の中に別の部屋として生成しなければ、到底、行動者自らが平等を保証することなんてできない。
この平等を阻害する行為、および自分が行なわれて嫌なことを他人に仕向けるというような、争いごとが起きる原因となる行為を排除する方向に社会のルールを持っていきたい。
具体的には、『頼みごとを行なう』等を題材に、(社会に出た時を想定して) 相手が年上・同年齢・年下に対する場合を含めるため、学年間の同時授業とし、相手、特に年下に対する態度として、『怒鳴りつけて命令する』場合や、『下手に出て土下座で頼み込む』場合も含めて、生徒自身が自分のその行動を録画したビデオを鑑賞することによって、第三者的な立場として、自分たちの行動がどの部類に入る行動なのかという判断を行なう。
この判断を、なにか行動を起こそうとする度に、常に意識して行なえるように身体に染み込ませることを最終目的とする。
大多数の人は理解力があるため、このような授業を行なわなくても構わないはずなのだけど、理解度の不足している者は少なからず確実に存在するため、明示的に授業として行なうべきなのである。
例を挙げると、現在の役職に就いている中高年男性に多く見られるように、年下を卑下して奴隷扱いにしかできないような人達がいる。
(補足すると、このような扱いを行なう人間は性別・年齢に関係なく存在することを現実として確認している。ガキを足蹴にするおばはん(≒ババア)も存在する。例に挙げたのは比率的な理由でしかない。)
この例に挙げたような人達を無くす必要もあるため、授業では中学生間のような近距離の年齢ではなく、大きく年の離れた年下に対する態度として、明示的に意識させる必要がある。
具体例としては、まず今は中学生の自分が 40歳くらいのエラい人になった時に、中学生の人達、つまりは今の自分に対する態度として、どのような言動を行なうのかを意識させる。
そして、今の中学生の自分に対する態度として、40歳くらいのエラい人が自分に対してどのような態度を行なうのかを意識させる。
この例のような意識を通じて、大人に成長した時に平等性に欠けた行為を行なわなくなるように教育する。
中学生という年齢は、大きく離れた年上なら多く存在するけど、大きく離れた年下で会話の成り立つ相手が存在できない状態ではあるが、頭脳の軟らかい中学生のうちに年上から見た年下を意識させ、その態度として年下を一人の人間として扱えるように (奴隷扱いにしかできないような人間にはならないように) 教育したい。
私の現実の認識としては、成人を過ぎてフケてきた人を年下に持つ大きな年上の人達は、その年下を、奴隷のようにしか扱えない人達がいる。
その一方で、既にフケた大きな年上の人達が、若々しい新進気鋭の人を、生意気だとかいう言葉を以って奴隷のようにしか扱わない人達もいる。